序章:今年もまた、市場に響いた”5月の呪文”。あなたは、その声に従ったか、逆らったか
「Sell in May, and go away, but remember to come back in September.」 (5月に株を売り、市場を去れ。ただし、9月には戻ってくることを忘れるな)
株式市場という、予測不可能な大海原を旅する投資家の間で、古くから羅針盤のように語り継がれてきた、このミステリアスな格言。今年もまた、桜が散り、風が初夏の匂いを運び始める4月の終わり頃から、多くのメディアや投資家の間で、この“5月の呪文”が囁かれ始めました。
「今年こそ、セル・イン・メイはやって来るのか?」 「いや、今の相場の強さなら、アノマリーは関係ないだろう」
様々な憶測が飛び交う中、あなたはこの呪文にどう向き合ったでしょうか。格言に従い、5月を前にポジションを軽くしたでしょうか。それとも、アノマリーなど迷信に過ぎないと一蹴し、強気の姿勢を崩さなかったでしょうか。

本記事は、このあまりにも有名な相場格言「セル・イン・メイ」を、まさに私たちが経験したばかりの**「2025年の現実のマーケット」**を、最も新鮮な題材として、徹底的に検証する試みです。 アノマリーが生まれる背景にある合理的な理由を解き明かし、過去の統計データが示すその“勝率”を分析します。その上で、終了したばかりの2025年5月から6月にかけての相場を克明に振り返り、なぜ「その結果」になったのかを、マクロ経済、金融政策、企業業績といった複数の視点から深掘りします。
そして、この検証を通じて、私たち投資家が、この種の「アノマリー」と今後どう付き合っていくべきか、その賢明な戦略を、1万字のボリュームで提言します。アノマリーの本質を理解することは、市場の深層心理を理解し、その他大勢の一歩先を行くための、強力な武器となるはずです。
【第一部】「セル・イン・メイ」の正体 ~なぜ5月に売り、9月に戻るのか?~
この格言を正しく理解するためには、まず、その言葉の由来と、現代の市場においても、なお妥当性を持つとされる、その背景にある合理的な理由を知る必要があります。

第1節:格言の起源と、その“完全な”意味
この格言の起源は、18世紀のイギリス・ロンドンの金融街、通称「シティ」にまで遡ると言われています。当時の貴族や裕福な商人たちは、夏の暑い時期になるとロンドンを離れ、避暑地で過ごし、9月に行われる競馬のシーズン最後のビッグレース「St. Leger’s Day(セントレジャーデイ)」の頃に、ロンドンに戻ってくる、というライフスタイルを送っていました。
つまり、元々の格言は「Sell in May and go away, and come back on St. Leger’s Day」という形でした。市場の主要なプレイヤーたちが、夏の間、文字通り市場から「go away(去って)」しまうため、商いが薄くなり、相場も活気を失う。だから、彼らが戻ってくる秋まで、一緒に休んだ方が良い、という、極めて実際的な生活習慣から生まれた言葉だったのです。
ここで重要なのは、多くの人が記憶している「5月に株を売れ」という、前半部分だけが全てではない、ということです。この格言の後半、**「…but remember to come back in September.(ただし、9月には戻ってくることを忘れるな)」**という部分にこそ、その本質が隠されています。
これは、単なる「5月以降の弱気相場への警鐘」だけを意味しているのではありません。それは、**「夏場の調整期間を経て、秋(9月の最終水曜日とされる“September equinox”以降)からは、再び力強い相場が始まる可能性が高い。だから、そのチャンスを逃すな」**という、市場のサイクルを見据えた、周期的な投資戦略論なのです。
第2節:アノマリーを支える、現代の“4つの合理的理由”
では、18世紀の貴族のライフスタイルから生まれたこの格言が、なぜ21世紀の現代においても、なお生命力を持ち続けているのでしょうか。それは、当時の状況とは理由は異なれど、現代の市場にも、5月から夏場にかけて、株価が軟調になりやすい、極めて合理的な理由が存在するからです。
-
① 欧米機関投資家の「夏休み(バカンス)」という構造: これが、最大の要因です。現在の東京株式市場の売買代金の過半数は、海外の機関投資家が占めています。そして、彼らの多くが拠点を置く欧米では、今もなお、7月下旬から8月にかけて、数週間単位の長期休暇を取る文化が根付いています。巨大な資金を動かすファンドマネージャーやアナリストたちが、一斉に市場を離れる。彼らは、その長期休暇を前に、リスク管理の観点から、保有するポジションを整理・縮小する(利益確定売りなどを行う)傾向があります。この**「海外勢の不在」と「休暇前のポジション調整売り」**が、市場全体の出来高を減少させ、上値を重くする、最も構造的な要因となります。
-
② ヘッジファンドの決算期という需給要因: 全てのヘッジファンドがそうではありませんが、伝統的に、多くのヘッジファンドの決算期が5月や6月に集中していると言われています。彼らは、顧客に報告する運用成績を確定させるため、その期末を前に、利益が出ているポジションを売却し、利益を確定させる動きに出ることがあります。これもまた、需給を悪化させる一因となり得ます。
-
③ 市場の「材料難」という名の空白期間: 4月下旬から5月中旬にかけて、日本の企業は3月期の本決算発表シーズンを迎え、市場は大きな盛り上がりを見せます。しかし、そのお祭りが終わると、次の本格的な決算シーズンである第1四半期決算の発表(7月下旬~)まで、大きな企業材料が出てこない**「材料の空白期間」**に入ります。同様に、日銀やFRBといった中央銀行の金融政策決定会合も、夏場は間隔が空きがちです。市場を動かすエネルギー源となる「材料」が不足することも、相場が方向感を失い、閑散とする要因です。
-
④ アノマリーの「自己実現的予言」という心理要因: そして、最後に無視できないのが、この「セル・イン・メイ」というアノマリーの存在を、世界中の多くの投資家が知ってしまっている、という事実です。多くの人々が「5月からは、相場が下がりやすいらしい」と信じていること自体が、「ならば、5月になる前に、一旦利益を確定しておこう」という売り行動を誘発します。そして、その集合的な売り行動が、結果として、本当に株価を押し下げてしまう。アノマリーが、アノマリー自身を現実のものとしてしまう、という自己実現的な側面も、強く働いているのです。
第3節:データで見る「セル・イン・メイ」の、驚くべき勝率
では、このアノマリーは、過去のデータ上、どの程度有効だったのでしょうか。 様々な分析機関のレポートがありますが、例えば、過去数十年間の日経平均株価や、米国のS&P500といった主要な株価指数の月別パフォーマンスを分析すると、驚くべき傾向が見えてきます。
それは、「11月から翌4月までの6ヶ月間」の株価リターンは、「5月から10月までの6ヶ月間」のリターンに比べて、統計的に、そして圧倒的に高い、という事実です。年によっては、もちろん夏場に大きく上昇することもありますが、長い期間で平均すれば、この傾向は、国や時代を超えて、かなり広範囲に観測される、極めて強力なアノマリーの一つなのです。
ただし、ここで改めて強調しておきたいのは、これはあくまで**「確率」と「傾向」**の話であり、その年の勝率を100%保証するものではない、ということです。では、今年の現実は、どうだったのでしょうか。
【第二部】2025年5月、”その日”の記録 ~アノマリーは、なぜ破られたのか?~

いよいよ、本稿の核心部分です。私たち投資家がリアルタイムで経験した、2025年5月の相場を振り返り、そこで何が起きたのかを検証していきましょう。
第1節:【結果速報】2025年5月、日本市場のリアルな値動き
まず、結果から申し上げます。 2025年5月1日から5月31日までの日経平均株価は、月前半にやや調整する場面も見られたものの、月後半にかけては力強く上昇し、月間ではプラスのリターンで取引を終えました。 つまり、2025年の日本市場において、「セル・イン・メイ」のアノマリーは、明確に機能しなかった。古くからの市場の呪文は、破られたのです。
第2節:なぜ“呪文”は破られたのか?アノマリーを打ち消した「3つの強力な追い風」
では、なぜ、あれほど歴史的に確からしさの高かったアノマリーが、今年は機能しなかったのでしょうか。その理由は、季節性という「弱いシグナル」を、いとも簡単に打ち消してしまうほどの、**極めて強力な「ファンダメンタルズ上の追い風」**が、今年の日本市場には吹いていたからです。
-
追い風①:歴史的円安を背景とした、輸出企業の「絶好調決算」と「超強気ガイダンス」 最大の要因は、4月下旬から5月中旬にかけて発表された、日本企業の3月期本決算の内容にあります。特に、自動車や電子部品、産業機械といった日本の基幹産業である輸出企業は、1ドル150円台という、多くの企業が想定していた為替レートを大幅に上回る「歴史的な円安」を追い風に、過去最高の利益を叩き出す企業が続出しました。 さらに重要だったのは、彼らが同時に発表した**2025年度の通期業績予想(ガイダンス)**です。保守的な予想を出す企業が多い中、多くの一流企業が、市場のコンセンサスを上回る、極めて強気な見通しを示したのです。この、日本企業の「稼ぐ力」そのものに対する、力強い自信の表明が、季節的な売り圧力を、完全に吸収し、打ち消してしまいました。
-
追い風②:日銀の「ハト派的姿勢」の再確認と、海外投資家の継続的な“日本買い” 市場が注目していた、4月末の日銀金融政策決定会合。ここで、植田総裁は、追加利上げに対して、市場が想定していた以上に慎重な、いわゆる「ハト派的」な姿勢を維持しました。この結果、日米の金利差は当面、大きくは縮まらないとの見方が市場に広がり、海外投資家による**「日本株を買い、円を売る」**という、2023年から続く大きなトレンドが、5月も継続したのです。 「セル・イン・メイ」の最大の要因であるはずの海外勢が、夏休みに入る前の「最後の買い」を、むしろ活発化させた。これが、アノマリーが破られた、二つ目の大きな理由です。
-
追い風③:「PBR1倍割れ改善」への期待と、株主還元策の“連鎖” 東証による市場改革、特に「PBR1倍割れ改善要請」のプレッシャーは、2025年の決算期において、具体的な「果実」となって現れました。多くの企業、特にこれまで株主還元に消極的だった伝統的な大企業が、今回の決算発表と同時に、過去最大規模の自社株買いや、大幅な増配といった、積極的な株主還元策を、まるで連鎖するように発表したのです。 この動きは、「日本企業は、本当に変わり始めた」という強いメッセージを国内外の投資家に与え、日本株市場全体の魅力を、構造的に高めました。これが、相場全体の下支え要因として、強力に機能したのです。
第3節:【深掘り分析】アノマリーは「弱いシグナル」に過ぎない、という重要な教訓
2025年の「セル・イン・メイ」の不発が、私たちに教えてくれる、最も重要な教訓。それは、アノマリーというものが、本質的に、市場に他に強力な方向性を決める材料がない場合にのみ、その姿を現しやすい「弱いシグナル」に過ぎない、ということです。
風が吹いていない、穏やかな湖であれば、小さな石を投げ込んでも、その波紋は遠くまで広がります。しかし、嵐が吹き荒れている大海原では、その小さな波紋など、巨大な波に一瞬でかき消されてしまいます。
アノマリーも、それと全く同じです。今回のように、①力強い企業業績、②緩和的な金融政策、③市場の構造改革といった、より強力で、ファンダメンタルズに根差した巨大なトレンド(嵐)が発生している状況下では、季節性という「弱いシグナル(小さな波紋)」は、いとも簡単に無力化されてしまうのです。
私たち投資家は、アノマリーを盲信するのではなく、常に、その時々の相場を支配している「メインテーマ」が何であるかを、冷静に見極める必要があります。
【第三部】アノマリーとの賢い付き合い方 ~来年の「5月」に、どう備えるか~

では、この教訓を踏まえ、私たちは、来年以降、「セル・イン・メイ」というアノマリーと、どう付き合っていくべきなのでしょうか。
第1節:「セル・イン・メイ」は、もはや時代遅れの“死語”なのか?
今年の経験だけをもって、「この格言は、もはや現代では通用しない、時代遅れの死語だ」と結論付けてしまうのは、あまりにも早計であり、危険です。
なぜなら、アノマリーを生み出す背景にあった、「欧米機関投資家の夏休み」という、市場の構造的な要因は、来年も、再来年も、変わることなく存在するからです。もし、来年の春、今年のような強力な追い風(絶好調な決算や、大規模な金融緩和)が吹いていなければ、どうなるでしょうか。その時、市場を支配する明確なテーマがない中で、アノマリーは、再びその本来の力を発揮し、株価に静かな下落圧力をもたらす可能性が、極めて高いのです。
アノマリーは、「捨てる」べきものではありません。それは、その**「有効となる条件」と「無効となる条件」**を、深く理解した上で、自らの投資判断のツールボックスの中に、慎重に備えておくべき「道具」なのです。
第2節:あなたの投資戦略に、アノマリーを組み込む3つの具体的な方法
-
リスク管理の「警報装置」として利用する: 毎年、4月の終わりが近づいてきたら、「これから、季節的に見て、相場が軟調になる可能性のある時期に入る」という、一種の**警報装置(リマインダー)**として、このアノマリーを思い出してください。そして、それをきっかけに、ご自身のポートフォリオのリスク許容度を再点検するのです。信用取引などのレバレッジを効かせすぎていないか、特定の銘柄にポジションが偏りすぎていないか、などを確認する、年に一度の良い機会となります。
-
逆張りの「買い場探し」の、強力なヒントとして利用する: もし、来年以降、実際に5月から夏場にかけて、市場全体が明確な理由もなく下落する局面が訪れたとすれば、それは、パニックになる場面ではありません。むしろ、ファンダメンタルズが良好で、長期的に成長が見込める優良株を、市場全体の気分の悪さに乗じて、安値で仕込む絶好の機会となりうるのです。多くの人が、格言に従って恐怖を感じて売る時にこそ、冷静に買い場を探す。その逆張りの発想の、力強いヒントとして活用するのです。
-
「何もしない」という判断を、積極的に正当化するための根拠として使う: 相場が不透明な時期に、無理に取引をして、損失を出す。これは、個人投資家が最も陥りやすい失敗の一つです。5月以降、明確な投資機会が見いだせない時に、「アノマリーによれば、今は市場を休むべき時期だ。だから、私は積極的に何もしない」と判断する。この「何もしない」という、勇気ある、そして賢明な判断を、アノマリーが力強く後押ししてくれるのです。
第3節:最も重要なのは、常に「なぜ?」を問い続けること
アノマリー投資において、最も危険なのは、その背景にある理由を全く理解しようとせず、ただ格言を鵜呑みにして、「5月だから、売る」と、思考停止で売買してしまうことです。
「なぜ、5月は売られる傾向があるのか?」 「なぜ、今年はそれが機能しなかったのか?」 「来年の5月は、どのような経済環境が予想されるか?その環境下で、このアノマリーは機能するだろうか?」
常に、その現象の裏側にある**「なぜ?」**を、自分自身の頭で問い続ける姿勢。その尽きることのない知的好奇心と、深い分析力こそが、あなたを、単なる格言の信者から、アノマリーを自在に使いこなす、真に賢明な投資家へと成長させてくれるのです。
終章:市場の”言い伝え”と対話し、自分だけの航路を描け

「セル・イン・メイ」。 それは、株式市場という、何百年もの歴史を持つ広大な海を旅してきた、先人たちの膨大な経験と知恵が凝縮された、一枚の古い「海図」のようなものです。
その海図は、時に、嵐が来やすい危険な海域を、私たちに正確に教えてくれる、極めて信頼できる道しるべとなります。 しかし、またある時には、新しい強力な海流の発生や、大陸の移動といった、地殻変動レベルの大きな変化の前では、全く役に立たない、ただの古い紙切れと化すこともあります。
賢明な航海士は、古い海図を盲信するようなことはしません。それを、重要な参考情報として尊重しつつも、最終的には、自らの目で風向きを読み、星の位置を確かめ、そして自分だけの、最も確からしい航路を描いていくのです。
2025年、私たちは、「セル・イン・メイ」という古くからの呪文が、日本企業の力強いファンダメンタルズという、新しい時代の風の前に、破られるという、貴重な経験をしました。この経験を、無駄にしてはいけません。これを、生きた教訓として、来年以降の、私たちの投資航海に活かすことができるか。
市場という、雄大で、そして気まぐれな自然との対話は、これからも、永遠に続いていくのです。


コメント